新年あけましておめでとうございます。
昨年は、ブログの更新が少なすぎましたので、今年は去年の倍くらいにしたいなと思います。できれば月イチくらいで書きたいですね(去年はそんなに少なかったんだ!)。それでは今年もよろしくお願い致します。
さて2014年最初のお話は、焙煎について。
焙煎をするのに、これはほかのことにも言えるのであるが、やっぱりここをおろそかにはできないなあと思うのが段取りである。段取りをきちんとしたほうがいい理由は、段取り通りにやれば素晴らしい結末が待っているから、である。
もともと「段取り」は芝居で使われる言葉で、芝居を成功させるために細かいところまできちんと決め事をしておくこと、だそうで、焙煎も同じで、カップにしたときの素晴らしいコーヒーを思い描いて、その結果になるように細部をきちんとデザインすること、これが段取りであろうと思う。
それを踏まえて僕が大事に思っていることは、二つである。
一つは、きちんと自分の中でカップにしたときの素晴らしいコーヒーがイメージできているかということ、もう一つは、そのためにデザインした段取り通りに進行したかということ、である。
この二つの要素は主従の関係になっていて、まずイメージがあり、それを実現するための段取りをデザインし実行するわけである。
この主と従が逆転することは無い。なぜなら、完成型のイメージが無いのに段取りが組めるわけが無いからである。
さて、この二つであるが、非常に大事な前提条件をそれぞれに持っている。
まずイメージの話では、その完成型、つまりカップになったときに、素晴らしいものになっているということ、そしてそのカップはきちんと自分の目指しているものであることである。
そして段取りの話では、その段取りは完成型になるようにデザインされているか、そして再現性が高いものかどうかが大事だ。
二つを並行して話していとどうもこんがらがりそうなので、イメージと段取りの話を分けて、すこし説明しよう。
イメージというのは、カップにしたときに、飲んだ人がこう思うはずだという具体的なイメージである。それは、焙煎者によって違って当然だろうし、実際に違うのだろうと思う。
例えば、こんな感じだ。
焙煎者A「スペシャルティコーヒーの神髄を味わってもらえるようなカップ」
焙煎者B「毎日飽きずに飲めるコーヒー」
焙煎者C「深煎りファンが唸る味」
焙煎者D「違う世界にトリップできるような」
焙煎者E「イタリアのバールを彷彿とさせる」
焙煎者F「小さな幸せを日常に感じてもらえるカップ」
エトセトラエトセトラ(素子嬢オマージュ)。これは焙煎者の数だけイメージがあってもいいのではないかと思う。
イメージするところが何かというのが決まっていれば、いつもその心の原則に従って焙煎をするはずである。ブラジルであれエチオピアであれ、コンテスト入賞豆であれ平凡な豆であれ、いつも心の原則が生きた焙煎になる。そしてそれが焙煎者のスタイルになる。
つまり、カップにしたときにその焙煎者それぞれのスタイルがカップに出るわけなんだ。ただ、最初からスタイルがあるわけじゃない。そのスタイルは作り上げていくものである。厳しい言い方をすれば、スタイルを確立しなくていいい焙煎者もいるだろうし、確立したくても志半ばで舞台を降りる人もいるだろう。スタイルがあると思ってやっていても伝わらないってこともあるかも知れない。むしろ、スタイルがあるって周りが認めるほどの焙煎をしている人のほうが極々少数派なのだろう。僕だって、ぜんぜんスタイルがあるなんてとこに到達してない。でもそのスタイルをなんとかして表現したいと思ってる。
段取りについては、これはもうイメージしたカップを実現するためにどうやったらいいかということに尽きる。
投入温度は? ガスのコントロールは? というようなテクニカルな部分をきちんと段取りしてなければダメだ。毎回ブレるようでは、タナボタなカップがあるようでは、ダメ。どういうカップにしたいかというのがあればその結果を得るために段取りが決まるわけだから、ブレたりフロックがあったりはしないハズなんだ。
ただし、その段取りは「こんくらい」が通用する世界である。「釜の蓄熱量がこんくらいだから、ガスはこんくらい」が通用してこそスタイルだと思う。データ通りに再現したら同じ焙煎になった、ではスタイルが出てるとは思えない。スタイルがあるってことは「あ、これはアイツが焼いたコーヒーだ」ってことなんだ。
それをもっと突き詰めて考えていくと、焙煎しているときの服装や、その時に聴いてる音楽、焙煎機に当たる照明なんかも、目指すカップに合わせていかなきゃならない。(おっとオカルトじみてきましたか? 読者がサーっと引いていく音が聞こえますが気のせいですか?)
で、イメージの話と段取りの話の理解が深まったところで、ちょっと前のほうに戻る。
主従は逆転しないという話だ。
主はイメージ、従は段取り。これが合わさってスタイルになる。
という話なのだが、まず段取りありきということにはならないところが重要である。例えば、とあるコーヒーを飲んだら「ちょっと焦げてる」と感じたとする。しかしそれがスタイルであれば容認され得るというところが重要なのである。
主であるイメージに「ちょっと焦げ」という要素が入っていればそれはむしろ成功であると言える。きちんと「ちょっと焦げ」をカップに出すように従である段取りをデザインできており、その段取り通りにきちんと焙煎した結果であるからだ。
ネガティブな「焦げ」を例に出すとわかりやすいので、最初にこの例を出したが、そのカップを手に取った全ての人が感じるすべての要素が、スタイルとして容認され得るところが重要である。極端なところを言えば「彼の焙煎したコーヒーは美味しくない。しかしそれが彼のスタイルとしてそれが支持されている」ということもあり得るのである。もちろんポジティブな要素でスタイルが構成されている場合のほうが多いと思う。しかし、ネガティブな要素がスタイルになり得ない、ということはあり得ない、のである。
コーヒーそのものの価値のほかに、お客様はいろんな価値を見出してそのコーヒーを支持する。常に袋の中のコーヒー豆だけの価値で購入するわけではないし、カップの中の液体のみを味わって判断しているわけではない。
パッケージはどうか、お店の雰囲気は、立地条件や交通の便、コーヒー以外のメニューは、などとコーヒー以外にまつわる要素はいくらもある。しかしながら、スタイルというものに惹きつけられてそのコーヒーを支持する、ということもあって然るべきだし、実際にある。無いと困る。(無いってことになるとここまでの長文が意味無くなっちゃうんだよ)
誰かを惹きつけてやまないそのスタイルの圧倒的な魅力の前では焦げや水抜き不足など取るに足らない揚げ足取りなのかもしれないし、良く焼けたからと言ってそれがスタイル未満であれば誰かの目を奪ったり足を向けさせたりする要素にならないのかも知れない。
というようなことが、ある。あると信じる。信じて、僕は焙煎するのだ。
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