美味しいコーヒーってこういうことか、と腑に落ちた話。

今年の思い出話のひとつである。
僕はジャパンハンドドリップチャンピオンシップという大会のジャッジをやっているのだが、その大会中でのとある出来事をお話ししたい。

ダチョウ上島の見守る中で

大会の期間中、ジャッジはそれこそ許容量を超えてたくさんのコーヒーを飲まなければならないわけであるが、それでもジャッジといってもコーヒー屋であるからして、朝、顔を合わせればコーヒーを飲みたがるのである。
ジャッジの朝のミーティングの席で、そこに豆はある、ドリッパーもお湯もある、カップがあるとなれば「じゃあコーヒー飲みながら」ということになる。
初見の豆で、ミルも普段と違うし、水質だって地元とは違う。プロがそろっているところで失敗したくないという心理も働くし、ほかの人の抽出を見たいということもあるので、大抵の場合は誰が淹れるかということになると、みな譲り合って口ぐちに「どうぞどうぞ」とダチョウの上島状態になるわけであるが、その日、多数の指名を獲得し最初に淹れた某氏(ずーっと某氏と書くのもなんなんで、エヌ氏としときますか)、特に気負う風でもなく、かといってお客さんの前ではなく言わば身内だけだからと雑にするわけでもなく、つまりはいつも通りに、落ち着いた様子でおもむろに抽出の準備を始めた。

「じゃあいつも淹れてる感じで淹れますね」

とゆっくりとドリッパーを手に取り、丁寧にペーパーをセットし、豆を挽き・・・

ふだん豆焼きをしている印象の人なのだがもちろん抽出もスペシャリストである。そのエヌ氏が淹れ始めると周りから矢継ぎ早に質問が飛ぶ。それに答えながら流れるような手つきで抽出が終了した。

「初めて見る豆で、いつも通りに淹れてみたけどどんなもんでしょうね」

全員、取り分けられたカップに口をつける。そして異口同音に。

「美味しい」

このカップはいわゆる「ミラクル」だったのか

そのコーヒーは、実際、大変に美味しかった。掛け値なしに美味しかった。
エヌ氏のコーヒーの美味しさに、プロ根性に火がついたか、そのあと我もわれもとダチョウ上島たちがコーヒーを淹れ始まったのだが、エヌ氏の条件設定と淹れ方がわかっているだけに、もっと美味しいコーヒーを淹れてやれとばかりに目を三角にして条件設定を考える者、淹れ方を工夫する者、それぞれにやり方を少しずつ、あるいは大胆に変えて抽出をし、皆で試飲するのだが、これが一向にエヌ氏のコーヒーにおよびもつかないのである。

プロがよってたかって様々な抽出を試してみたが、どうにもエヌ氏のコーヒーを越えられない。
エヌ氏のコーヒーを飲んだあと、状況を冷静に考えると、エヌ氏のコーヒーに挑戦みたいな感じになっているために、エヌ氏対残り全員という図式になっているのだが、プロがよってたかってさまざまな抽出を試みるも見事に全員なで斬りの返り討ちであった。

さて、後だしジャンケンにも負けることのなかったエヌ氏のコーヒーは、果たして神の作りたもうた偶然による奇跡のカップだったのか。

最高の一杯のつくりかた

実は、僕はその時、このエヌ氏のコーヒーは、おそらく様々な条件がうまく重なっての奇跡の一杯に近いものではなかったのかと思っていたのだが、大会の裏方をずーっとやっていた経験から、それは思い違いだ、と後で考えなおすようになった。
これは、成るべくして成ったカップであり、偶然の入る余地はほとんど無かったのではなかろうか、と思うのである。

もう一度、エヌ氏のコーヒーを思い起こしてみる。
エヌ氏は、初見の豆を、慣れない場所で、お客様ではなくジャッジに向けて、即興で淹れるハメになったわけである。
そこで大事なのは、エヌ氏は「よし、うんと工夫してみんなを驚かせてやろう」とは考えず、普段通りに淹れたということである。

おそらく、お店で淹れているのとまったく同じやりかただったのだろう。迷うことなく、ひとつひとつの手順を流れるようにこなしていき、同じプロばかりが見守る中でひとつも気負うようなところもなく、しかしお客さんに出すんではないからと気をゆるめることもなく、つまりは以前にお店でコーヒーをごちそうになったときと同じように淹れていた。
エヌ氏の、その人そのものの個性が作業やカップによくあらわされ、淹れてくれた人とカップにとても調和がとれていた。そしていつも通りのやり方が、エヌ氏のパフォーマンスをもっとも高めるというのも当たり前のことであり、それがカップクオリティに反映されていたのであろう。
多少、いつもと勝手が違い、慣れないところはあったと思うが、だからこそ普段通りにひとつひとつの作業を行うことでどこにも無理が出なかった、すなわち、カップに瑕疵が無くその条件でのパーフェクトな液体を抽出することができた、と考えられるわけである。

それに対し、僕も含め後だしジャンケンをした人たちは、その逆張りをしたわけだ。
やれメッシュだ、ドリッパーだ、いや注湯の速度をだな、などと侃々諤々で淹れたコーヒーが、自然に美味しいわけがない。それはカップのどこかに無理やわざとらしさが、当然のように顔をだしてくることになる。
「風味はよく出てるけどクドい」とか、「スッキリしているけど物足りない」とか、「酸の表現はいいけど甘味が無い」とか。
狙いはよくわかるんだけど、その狙いのためにほかの何かを犠牲にしている、そう感じるようなカップになってしまう。

まとめ。「普段の一杯が最高の一杯であれ」

ブラインドでジャッジする大会では、抽出者の顔が見えない。淹れている所作も見えない。しかし、大会でたくさんのカップを飲んでいると、そのカップから抽出者の人となりがなんとなくわかるような気がすることがある。言葉に「これこれだ」とできるわけではないのだが、なんとなく「わかったような心持ちになる」そんな感じがすることがある。カップの向こう側に、微笑んでソーサーを持ってこちらにサーブしてくれる抽出者が見えるような気がするのである。

大会で勝ちたいというのも、お客様に最高のカップを提供したい、というのも、根は同じことだろう。
そういう気持ちを持って、最高のカップを作ろうとするときに、普段の一杯が最高の一杯であれ、ということを念頭に普段のカップを磨くことが必要なのだと思う。

エヌ氏のカップは掛け値なしに最高のカップだった。しかしそれはエヌ氏にとっては「なんの変哲もない、ただの、普段通りの一杯」であったはずだ。つまるところ抽出ということをとことんまで突き詰めてあらゆる面で最高に近づけていくことで、特別なことをしなくとも、いつも通りに淹れれば、そこがどこであれどんな豆であれどういう状況であれ、美味しく淹れられるということなのだろう。
誰かが作るカップは、誰かが作るカップなのである。禅問答のようであるが、エヌ氏が作るカップはエヌ氏が作るカップであるから美味しいのだと考えると、僕が作るカップは僕のやり方をとことん突き詰めて、完成に近づけていきたいと思うし、それは抽出者一人ひとりがそれぞれのやり方を突き詰めてもらいたいものだと思う。そしてそういう、自分というものがよくわかっていて、自分のやり方(スタイルというんでしょうか)をきちんと完成させている人とカップというのは、普通に淹れれば美味しくなるんだなあということなんじゃないかと思うのである。

エヌ氏に学ぼう。

普段の一杯が最高の一杯であれ。


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